稲城の里山と史蹟を守る会

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歴史の学者、研究者が南山に関心を寄せ、ぞくぞくと現地に!!!

板碑研究で有名な、千々和 到(ちぢわいたる)先生(国学院大学文学部教授)が5月3日、「南山」を現地視察。
岩本陽児先生(和光大学准教授)、渡辺賢二先生(明治大学非常勤講師)も同行。
今後も、南山の里山と史跡を守るために尽力することを約束していただきました。


 最近、3月シンポでの講演の、十菱駿武(山梨学院大学教授・考古学)勅使河原彰(文化財保存全国協議会常任委員)渡辺賢二(明治大学非常勤講師)の各先生、4月の集いの基調講演の、岩本陽児先生(和光大学准教授)など、何人もの考古学、歴史専門の大学の先生、研究者が南山の史跡に大きな関心を寄せていただいています。
当日は、代表の市村が案内しました。あいにく小雨交じりの天候。まず南山の入り口の妙覚寺の『稲城最大の板碑』を視察。板碑の裏面の削り跡が剥離しておらず、現物がそのまま保全されており、たいへん貴重なものであること。ありがた山墓石群では、ひときわ大きな「宝篋(ほうきょう)印塔」は、江戸時代、武家に限らず、豪商の墓にも見られること、先が反り返ってとがっている「舟形の墓石」、旗本御家人の墓の指摘など、さすが石塔の専門家の解説は興味深いものでした。



妙覚寺鎮守の稲荷神社が誕生し、神殿が造られた頃は、どんな時代?

稲荷神社が、勧請(かんじょう)(この地に神々を祀ること)された年代、社殿が造られた年代は、いずれも、日本の激動の時代でした。
★稲荷神社が勧請された、1215年(建保3)は、鎌倉時代の初期。鎌倉幕府2代将軍・源実朝殺されたのが1219年。次第に、鎌倉幕府の実権を、北条一族が執権として握り始め,武士の政権が確立していく時代です。


稲荷神社の社殿がつくられた1827年(文政10)は、どんな時代?

いわゆる『文化・文政時代』と呼ばれ、江戸の爛熟期で、反面、幕藩体制の揺らぎ、外国からの開港圧力など、江戸幕府崩壊の胎動期でもあります。
★文政10年―この年、稲城市域の各村の状況は?
 幕府『倹約令』が公布され、華美な服装、日傘使用まで禁止されました。体制強化策の改革組合が結成され、市域の村々は4つの組合に所属させられ坂浜村、平尾村は、小野路村組合に。大丸村、百村村、長沼村は、府中宿組合に。矢野口村は溝口組合に分けられました。現在の地域区分とは大分異なっています。幕府の上からの強引な『村合併』だったといえます。
★この頃は、貨幣経済が広がり、商店が稲城市域の村々にも誕生したのが「文政10年」です。
「農間諸商人取調書」によると、文政10年に、大丸村・髪結渡世・百姓助衛門、長沼村・居酒屋渡世・百姓佐次兵衛が創業しています。
★“遠山の金さん”こと遠山金四郎が北町奉行に就任したのは1840年(天保11)。文政10年から13年後。(ドラマの桜吹雪は創作)
26年後の1853年(嘉永6)には、米国使節ペリー来航で、急テンポに幕末の動乱期に突入します。NHK大河ドラマ、篤姫が登場する時代が重なります。



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